昭和49年10月30日 朝の御理解



 御神誡 一、「口に真を語りつつ心に真のなきこと。」

 心にもない事を言葉に出して言う。そう言う事を戒めてあります。そこで私は心に真心、心に真を感じた時以外は、口にしないと言う様な、精進が要るのではないでしょうか。軽口をというのではなくて、心に真、真(しん)真心。真心を心に感じた時に、それが言葉になって出てくると思う。そういう生き方を愈々身につけていかなきゃならん。そこで祈って話す祈って言うと言う事になるわけです。お話をさせて頂くでも、祈って話す祈って言う。そういう是は心掛けだと思う。
 中々心がいつも立派で、何時も真心いっぱいであればです。出てくる言葉は全部まことでしょうし、真心でしょうけれども。私共の心はそうとばかり行かない事もある。場合にはどうした器量の悪い子じゃろかと思いながらでも、どうした可愛らしさじゃろかなんて言う人がありますですたい。それからお宅の坊ちゃんは、どうして器量の悪かこっですかちは言われませんからね。そう言う様なことがあるんです。そこで私は祈って言うと言う事がね大事なんです。
 勿論祈って言い祈って行う、祈って記すと言う様な事になって来る訳です。これは信心させて頂く者が、これをなおざりに致しておりますとです。平気でそれこそ嘘の事でも、心にも思ってない事でも、反対の事でも平気で言う様になります。それでは信心になりません。心に真を感じた時真を口に出せば、それはそのまま真だと言う事になります。所謂心中心です。祈りを中心として例えば無口の人なんかは、こういう失敗はありませんですね。黙々としていわゆる無言実行の人がありますよ。
 黙ぁってなさっておられる。素晴らしいです。けれども金光様のご信心は、無言実行ではいけんのです無言実行では。金光様のご信心は、どうしても有言にならなきゃいけんのです。有言しかもそれが実行でなからにゃいかんのです。最近言われる合楽示現活動なんかというのは、これは言葉に出して言わなければ出来ない事ですから。話を聞いて助かる道であると同時に、話をして助かる道とも言えるのですから。自分がおかげを受けた事をそれを、真心を持って人に伝えていく。
 神心を持ってそれを人に伝えていくと言う事が、神へのお礼じゃとさえ仰るのですから、神様への第一のお礼なんです。しかもそれが、神になるのぞとまで教えておられます。自分がおかげを受けた事を真心を持って、それを人に伝えていく。いわゆる示現活動です。それは神様へのお礼であると同時にそれが神になる。それが神様へ向かって行く事なんです。合楽示現活動は神様が何を一番喜んで下さるかというと、現在合楽示現活動に参画させて貰うと言う事なんです。
 これが神様の一番喜んで下さる事なんです。それには先ず自分自身が極楽の状態。自分の心が有難い状態。三度三度のご飯が合掌して頂かなければおられない。有難うして美味しゅうして応えんと。もしそういう心が開けたならば、あなたはもうすでに極楽です。お金がないために、三度のご飯は一度にせんならん。はぁ食べたいけれども食べたら、吐き気を催して食べられない。是は極楽じゃないです。三度三度のご飯が美味しゅうして有難うして、本当に勿体ないと言うてもし頂けたら、あなたはもう極楽です。
 そうでしょう。食べられておると言う事が、第一有難いのです。それが美味しいと言う事は愈々有難いです。またそれが頂けれると言う事は、健康であると言う事の印なのです。ですからねもし三度のご飯が、美味しゅう有難く頂けたら、あなたは極楽ですから、その極楽を、こういう有難いおかげをです。合楽に伸ばしていかなきゃいけんのです。神様も喜んで下さり、氏子も喜べれる世界に持ち込んでいかなければいけん。ただ自分だけが美味しゅうして、勿体のうして応えんと言うだけじゃいかんのです。
 だから矢張りその無言実行じゃいかんわけです。本当にどうして有難い事じゃろかという、それをです人へ伝えて行くのです。信心させて頂いておるおかげで、お金にも不自由しない。おかげで健康である。おかげで勿論有難い有難いの中に、争いなどのあるはずはない。そういうおかげを先ずは頂かせて貰う。ために私は口に真を語りつつ心に真のなきことと教えておられますから、心に先ず喜びを感じた時。心に先ずは真を感じた時。その喜びを真を、そばにおる人に話を伝えていく。その実感を伝えていく。
 だから黙々とだけではいけない訳です。でないと示現活動にならないのです。心に喜びを感じた時心に真を感じた時、それをそのまま口に出すと言う事がです。それは示現活動であると同時に口に真を語り、心にも真がある心の真がそのまま口に出てくるという、そういう生き方をです。日々の生活の中に求めていかなければいけません。大変有難い事だと思うですね、そういう精進をさせて貰うと言う事は。心とは裏腹な、例えば嘘を言わなければならない人ほど、私は不幸せだと思うです。
 それこそ心にも感じない事を、言葉に出してお世辞を言わなければならんと言う様な事は、とてもそれが人に通じるとは思われませんです。昨日私ある若い方のお取次ぎをさせて頂いたんです。熱心に参って見えます。恋愛関係にあったんです。所がちょっと最近それが冷えだした。それでまあ自分も改まって、その事を願っておられるわけですけれども。そのことをお取次ぎさせてもらいよりましたら、見事な丁度若先生の庭に、竹林がございますね竹の庭が。
 そして石が具合よう、格好のいい石が配石してございますね。それがその竹があんまり、こう密生しているわけです。ですから肝心の石が見えてない所を頂きました。竹があんまり一杯に生えとるものですから、折角そこに良い石がいうならば、配石してあるのですけれども、その配石してある石が、藪のようになっておる竹のために、見えないである所を頂いておる。
 石と言う事は心と言う事です。ですから自分の心というものが、竹によって覆い隠されてしまっておると言う事です。例えて言うたらどうでしょうかね、それこそ明けても暮れても、心の中は恋人の事ばっかり思っておると言う事です。だから肝心要の自分の本当な心というものが、隠れてしまってるわけです。けれどもその恋人の事をですね、思うなと言うてもこれは、思うなという方が無理だろうと私は思います。けれども信心はねそこの所を一つ精進して行く事だと思うです。
 教祖様のみ教えの中に、心配する心で信心しろとこう仰るです。あの人の事が寝ても覚めても忘れられない。もう喉にご飯も通らんごと思う。あんまり思いよると胸が痛うなる。これでは折角のおかげが、おかげとしてキャッチできないという事なんです。そこで成程ちょっと目をつぶれば、その人の事ばかりが心にも浮かぶでしょうし、思いもしましょう。心が痛く成程思わにゃおれないのでしょうけれどもです。そこを信心によってです。いうなら妄念、雑念とでも申しましょうか。
 これは雑念とか妄念とかと、こう申しますけれどもね。私は金光様のご信心を頂いたら、それは雑念じゃない、妄念じゃないと思うです。そう思わせて頂く心、その心は私は有難い心だと思うのです。けれどもそれが自分の意思まで、自分の心までそれで覆いかぶってしまうと言う事は、やっぱり神様へ通わないと思う。いうならば心配する心が、自分の心を捕えてしまっておったら、他のものは捕える事は出来ません、捕らわれてますから。病気をしておる人が、ずうっと病気の事ばっかり考えておる。
 自分が病気である事も忘れるほどしのです。有難いものを頂いて行くと言う事が信心。だから思うなじゃないけれども、ちっとこう藪のごとなっとる所を、刈り取らなければいけない。思うなじゃない。病気しておる人がはっと我に返った時に、この病気が自分の命取りじゃなかじゃろかと、不安を感じるのは仕方がない。けどもそういう心を神様へ向けていくのです。心配する心で信心をせよと仰る。そういう心を神様へ向けていく時にです。不思議に、その心配が薄らいでくる、無くなるです。それでも心配の時には、お取次ぎを頂いたら、お取次ぎを頂いたその時点からです、楽になる心は。その楽になる心が次のおかげをキャッチするのです。
 不安心配焦燥私はこの口に真を語りつつ、心に真のなき事と言う事を、前半に聞いて頂きました。けども後半に今私が聞いて頂いて、分かって頂こうと言う事はです。心が雑念妄念で一杯になっておるような時に、真の事が言葉になって出るはずがありません。今日は、そこん所を分かって頂きたい。そこでです思わなければおられないでしょうけれども。それを神様へ打ち向こうていく、心配する心で信心せよと。
 そしてその事はもう親先生にお預けをする、お任せをするという。そこに暫くでも心が楽になる。その楽になるその時に、おかげというものは頂けるもんです。見え隠れにでも、その石が見えなければ、その石の値打ちがない。おかげは和賀心という。これはおかげは自分の心次第だという意味に頂いても良いです。和らぎ賀ぶ心といやなおさら有難いです。自分の心が何時も和らいでおる。自分の心がいつも喜びで一杯である。そして言葉に出てくるものは、それこそ気持ちの良い有難い。
 本当にそうです。例えば寒い所から帰ってくると、はぁ寒かったでしょうと心に本当に思うた事を言うてご覧なさい。もう寒かった事しろしかった事が消えるごとあるです。言葉というものは大変な力を持っております。それがよこしまな心であるとか心にもない、御世辞の様な事が、相手に繋がるはずはありません。ですから自分の心に、本当に真を感じた時にそれを言葉に出す。所が自分の心は今思うておる心配事で一杯になっておるのですから、その心が覆いかぶされておるという事です。恋しい人の事を思うなと言うても、思わなければおられんのが人情です。
 けれど信心ですからそれでは胸が痛むだけですから、それでは願いも成就しない、それでは只苦しいだけです。そこでその苦しい思いを、神様にお預けする様な気持ちで、それに捕らわれておる心を、取り外して頂く働きをです。信心によって頂かなければならん。いわゆる心配する心で信心する事によって、その心配の心が薄らいでくる。心配な心が取れてくる。そういう心で神様へ向かうというのです。ここでは口に真を語りつつ心に真のなき事と言う事は、是は人間対人間の場合だとこう思うのです。
 だから今日は後半に私が申しております事は、自分の真がその真心がです。祈りの言葉になって出るその祈りの言葉がです。真でなからなければいけない。でなかったら神様には通わない。ただ苦しい苦しい。そら心配心配。胸が切のうて切のうてというだけではいけない。教えを頂きますとです。神様が、ここが辛抱じゃ、ここが辛抱じゃと、こう言われると、確かに辛抱が出来るです。いわゆる有難いという心が頂けるからです。その有難い心で、願いあること頼まなければいけない。
 口に真を語りつつ心に真のなきこと。心に真を感じた時に口に出せ。これを神様へ向かってもそうです。心に真を感じる。そういうおかげの頂けれるために、自分の心の中の雑草的なもの、藪のように生えておる、それを先ず切り払うとか取り払う。例えば頭の中に妄念雑念と言った様なものが降りてくる時に、こうやって頭をうちぶっただけでも、晴れる事がありましょうが。はぁこんな思いじゃいかんいかんと、こう思うて次の思いに切り替える事が出来るでしょうが。
 それを神様におすがりをして、なさせて頂くのですから、どういう心に苦しい思いをしておる時でも。神様におすがりをして、それを飛び飛びでも良いから、取り外させていただく稽古をさせて頂くうちにです。その事は神様にお任せするという心が生まれてくる。そういう心で願うのです。人間の心は実を言うたら真です真心です。それに、様々な、雑草が生えておったり、垢がついておるから、人間の心としては、似ても似つかない、それこそ、獣の様な心が心の中に生まれるのです。
 大体人間ですから、人間の心というものがあるはずですけれども。その心に汚い心が伴います。その汚い心を払うと言う事です。その払うた心を祈りにする。その払うた心で人に接する。そこん所を祈って話す。祈って口を開くと言う事になるわけです。だから心の中にイライラしたり、モヤモヤしたりする時にはです。やっぱりそういう時にはどげん腹の立っとったっちゃもの言わんが一番よかです。
 腹の立っとる時もの言いよると、それこそ相手を傷つけます。と言うてもの言わんが良か、もう言わんが良いと言うとったんじゃ、いけませんから。それが本当に有難く言葉になって出るようなお繰り合わせを願うという事です。せっかくの自分の心がです、竹薮のようなもので、見えなくなってしまう。自分の心を見失ってしまうような事ではです。口に真が出てくるはずはありません。口に真を語りつつ心に真のなき事と言う事を、対人間の場合と、対神様へ対する場合を、大体聞いて頂いたと思います。
   どうぞ。